「教えるべきは教え,考えさせるべきことは考えさせる」という言葉の危うさ

最近ALの研究会に参加をすると,「全ての授業がAL型授業でなくてよい」という話を聞きます。確かに,課題解決学習やピア・インストラクションなどの学び方が,最適ではない授業は存在します。(知識・技能の習得を目標とする)いわゆる「普段の授業」では,AL型授業だと時間がかかりすぎるのが実際です。

上記の話と合わせてよく聞くのが,題名にもなっている「教えるべきは教え,考えさせるべきことは考えさせる」という言葉です。しかし,これによりALの視点からの授業改善を意識せずに,普段の授業は「今まで通りの授業でよい」という結論に至ってしまっている先生方が多いように思います。今回はそのことについて書いてみようと思います。

ALの視点からの授業改善には,「ラーニング」という言葉が表すように,教師の意識を「(教師の)教え」から「(子供の)学び」へ転換することが前提となります。

以上を踏まえた上で,「教えるべきは教え,考えさせるべきことは考えさせる」の問題点を探っていきます。

① そもそも「教える」と「考えさせる」の二択?

この二つの言葉はいわゆる使役表現です。つまり子供に「させる」ことをイメージしているわけです。この時点で前提から外れます。さらに言うなら,指導の方法をその二択に限定している時点で,子供の「学び」を狭めているのではないでしょうか。学びの主体を子供であるととらえた時点から,学び方の幅は急激に広がります。もちろんコントロールすることも必要だとは思いますが,少なくとも2つしかないということにはならないでしょう。
教師の都合で,子供にレールの上を「走らせる」授業は,これまでも問題視されている指導方法のはずです。たとえ,基本的な知識・技能の授業であってもです。
詳しくは次の項で書きます。

② 「教えるべきこと」とは何でしょうか。

いわゆる「考え方」の授業(研究授業で「定番」と呼ばれる授業)と対比として,普段の「知識・技能」の習得を目指す授業のことを指して言われているようです。

しかしALの視点から授業を改善しようと考えるなら,「教えるべきこと」とは,その授業で学ぶ「価値」や「期待」であって,授業の内容ではないと考えます。

このことは平成28年12月に出た中教審の答申でも,

基礎的・基本的な知識・技能の取得に課題が見られる場合には,子供の学びを深めたり,主体性を引き出したりといった工夫を重ねながら,確実な習得をはかることが求められる。

幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)(中教審第197号) 第7章 どのように学ぶか
第3項 発達の段階や子供の学習課題等に応じた学びの充実 (P9)

と書かれています。この「工夫を重ねながら」の部分が,ALの視点での授業改善ということになろうかと思います。

これはどう読んでも「今まで通りでよい」とはならないはずです。

 

「今までのような『研究授業』においてAL型授業をする」ということが目的化してしまうと,その授業をするために,普段の授業はいつも通りで,ねらったところだけAL型授業をするというやり方は,今後あり得るような気がします。しかしそれは,その場しのぎの姑息な手と言わざるを得ません。

先の記事(ALの階層①)でも書きましたが,全ての授業をAL型ですることが目的なのではなく,全ての授業を(AL型授業に含まれる要素に注目して)ALの視点で授業改善していくことが目的です。今回の言葉は,局地的な「点」でとらえた解釈が,本質からずれていった一つの例と言えるのではないかと思います。


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